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異端児研究

またやってしまった。仕事後、皆で中野のラーメンを食べにいこうという話になり、一人でそそくさと帰ってきてしまった。理由は「21時からのテレビを見たいから」・・・(-_-;)我ながら、なんじゃその理由・・・と思いつつ、まだ楽しくおしゃべりしている皆から外れて、また人付き合いの悪さを露呈しつつサクサク帰る。

でも本当に楽しみにしてたんだもん!!
というわけで、本日楽しみにしていたテレビは、昭和のホリエモン(なのか、ホリエモンが平成の山崎晃嗣なのかはわからないが)と言われる、光クラブ事件の山崎晃嗣のドラマである。東大在学中に会社を設立し、わずか数年で30億のお金を集め、逮捕され、27歳に青酸カリで自殺。そんなふれこみ宣伝で「こりゃ見なくては!!」とクイついてしまった。

どうも私は実話に弱い。それもよくあるお涙頂戴のドラマではなくて、異端児モノに弱い。それが嫌われ者だろうが、変わり者だろうが、社会的悪であろうが、ものすごい惹かれ興味を持ってしまう。そして私が興味をもった人たちの人生はたいてい悲劇であることが多い。自殺だったり、処刑されたり、謎の死をとげたり。。。

私がなぜそんな悲惨な人生に興味を持つのか。
輝かしい栄光の裏には、いつも深く暗い闇が流れているはずで、その紙一重のデンジャラスな人生に、また、自分では絶対に歩めないハイリスクハイリターンな人生を、特異でずば抜けた才能や頭脳で生き抜いている姿や強い精神力に惹かれているのかもしれない。でも、それを「死」という結末によって、悲劇とされる人生劇を送る異端児たちを、本当は心の奥底で笑っているのかもしれない。実のところ、本当の私の興味の矛先がどこに向いているのかはわからない。

こんな私が興味をもった異端児たちは数知れない。
それほど有名でない人も多くいるが、有名どころでは、アントワネットさんや、ブルースリー。モーツァルト。私は、一度興味を惹かれたら、飽きるまでの数日間調べまくる。(って数日だけか~い!)
そして今回は、人を信じず、女は道具であると言い切り、日記を記号で書き分けていく人間味のない男、山崎晃嗣が、はるか昔に友人たちに裏切られ、世間体ばかりを気にする家庭で育った背景を知るとき、彼の人生をもっと知りたくなる。一瞬の光を全身に受け、自分の死までも人生設計に組み込まれていたかのように、実況中継しながら死んでいった彼の精神をもっと垣間見てみたいと思ってしまったのだ。

そんなわけで、今日は朝から図書館へ。彼に関する書物を調べる。一晩たっても、私の心の中に山崎晃嗣という人物が住みついている。(←変な奴)
母に言う。
「ねぇねぇ。心にず~っと山崎晃嗣がいるんだけど!!」
母はあっさり答える。
「あら。困ったわねぇ。」
いつものことだと思っているようだ。数日したら勝手に飽きるだろうと思っているようだ。さすが生まれてこの方一緒にいるだけある。
私の「光クラブ事件」への研究は続く。さて、今回は何日で飽きることやら・・・(^_^;)

弱点こそ受け止めて♪

ブログも長く続けてくると、なんだか愛着がわいてくる。暇つぶし的な文であれ、文の構成がどーのとか、タイトルをもっとひねった方がよかったかなぁ・・・とか、絵文字の切れ目がここで入るのはマズイとか、どうでもいいところまで考えてしまうのだ。
先日書いたブログの題名「サッカー」。今日も仕事をしながら、「題名、サッカーはないだろー。何のヒネリもなかったよ。う~ん・・・」と考えてしまうわけである。で、「乗り遅れた非国民」とか「サッカー魂」とか、ヒネリをきかせてんだかどうかもわからない色んな題名を考えて頭がいっぱいになってきちゃうのだ。(←アホ。もっと他に考えることあるだろ!ってねぇ・・・(^_^;))そして結局、友達に話したら「いや、サッカーでいいよ。本当にあまり興味ないんだなぁって感じがタイトルによく表れている」と。
なんだか、自分があまり自信がない部分に、プラスの方向の見解を与えてもらえると嬉しい。

最近、仕事もあまりせず(というか断ってしまって暇ピーになってしまった)不安にかられていると「まぁ、そんなにガツガツ仕事しなくても、浪費家じゃないんだし、いいんじゃない!?」という、また天使のお言葉が♪
こうして周囲の温かい人たちに甘やかされて、私はすくすくノコノコと育ったのであります、はい(-.-)

そういえば、オリンピックの前にフィギュアスケートで、安藤ミキティと、荒川静香と村主さんの3選手が注目されていた頃、圧倒的にマスコミも男性陣もミキティ寄りだった。面食いな知人も「断然、ミキティを応援する!!」と張り切っていた。容姿が可愛いというのは得やねぇ・・・と思っていたけど、その時も友人は言った。
「俺は、ミキティより、いつもいつも泣きそうな村主や、秘めた闘志をむき出しにして、アゴがしゃくれている荒川の顔の方が人間味があって好きだなぁ」と。
私の彼に対する好感度が、ぐぐぐ~ん!!とあがっていった。彼は女性陣の味方だ!神様だ!!とまで思ったのだった。

人の弱点をプラスに受け止める人がうまい人っていうのはいる。そもそも人間の長所、短所なんて紙一重で、考え方によっては短所も一転長所になり得る。社会的責任を伴うことや、厳しい仕事上の出来事でもない限り、良好な人間関係を築くには、相手の弱点さえも許しあい、譲り合い、認め合いだと最近は悟ってきている。
わかっちゃいるけど、いかんせん悪いところが気になる。だから自分が自分でダメだなぁ・・・と思ってるとこなんかを、慰めや同情ではなく、本当に前向きな姿勢で認められるとほっと安堵する。

それに・・・人間、年を重ねると、この人はこんな人!みたいな特筆すべき点ってのは決まってくる。よく言われる似てる芸能人、褒められる点、その人のキーワード的性質。
私はA型なのに、よく「B型でしょ?」と言われる。思い切り関東人なのに「関西出身?」と問われる。似ている芸能人も最近、5、6名で固定されてきた。多分、褒め言葉であろう言葉も、もう褒められてるんだかなんだかわからなくなってきた。
それくらい言われることって特定されてきているのだ。

というわけで、周囲の皆様へUFOからのお願ゐ♪(←なぜか歴史的仮名遣い)
私の弱点を受け止めてください。私の不安を癒してください。私の変な部分を認めてください。私の嫌いなところを愛してください。重箱の隅をほじくって、私の自信のないところを褒め称えてください。
こうして私はまだまだ、すくすくぬくぬくと成長を遂げていこうと企てているのでありました。おわり。

偵察

ブライダルフェアに行った。
突っ込まれる前に言っておきますが、結婚のご予定があるわけではありません。はい。ただ周りの結婚していく友達達がこぞって「ここのフェアはかなり楽しい!」と言っていたのを思い出して、仕事後にふら~っと立ち寄ってみたのである。
この行動の裏には、“偵察”の意も込められている。ブライダル業界に片足を突っ込んでいる私としては、他の会社ではどのような式を提供しているのか・・・とか、他にはどんな素敵なチャペルがあるのか・・・とか見ておきたいという気持ちがあるのだ。そして、自分の仕事のモチベーションを上げたり、今後の参考にして悪いところを直したりしていこうという、なんとも直向きな心を持つ私(*^^)v

そういえば前にお笑い芸人に誘われて、小さなお笑いライブを見にいった。まだかけだし中の若手芸人たちが100人入るか入らないかの小さな小屋で、試行錯誤中の(?)発展途上ネタを次々と披露していくのだが、さすがに売れてないだけあって、心底面白い芸人はいない。それでも、一生懸命頑張る姿がなんだか微笑ましく素直に楽しんでしまった私だが、ふと隣を見ると、貧乏ゆすりしている彼の姿が( ̄▽ ̄;)
なんだなんだ!?自分で誘っておいて気にいらなかったのか!?
案の定、終わってから彼の厳しい批評は続いた。「あのライブにあのチケット代は高すぎる」だの「あの2人のネタきもい。ただのパクリじゃん」「あのネタはもっと練ったら絶対面白いのに」とか。
なるほど、やっぱり本業にしていると自分の土俵にあるものは素直に楽しめないのか。すべてのことをまるで成績をつけるように見てしまうようだ。

その後、私もお笑い芸人の偵察っぷりをマネして、他社のヨガレッスンを受けにいった。まさに偵察。でも、ただ自分のレッスンがマンネリして辛いから、他の会社のレッスンを見て刺激を受けようと思っただけなのである。
それなのに・・・。スタジオに入った瞬間から、もう自分の目が評価を下す人になっている。スタジオの造りから受付の対応、インストラクターの質、レッスン構成問題まで、私は一切楽しむということもなく、ただただ敵地に乗り込んだスパイのような気分で時間を費やしたのだった。

思えば、ヨガも舞台もツアー旅行ももう普通に楽しめなくなったのは、私が「これやりたーい。やっちゃえ~」と思いついたのを安易に仕事にしてきた・・・という浅はかな思考の結末である。

というわけで、ブライダルフェア。見事に楽しまなかった。
なんだ?このありきたりで、生への喜びも周囲の人たちへの感謝の気持ちも感じられない、手抜きの模擬式は。モデルが美人というとこ以外、褒めるに値するものがない。それこそ貧乏ゆすりをしたくなってしまうような感覚だった。
ここ最近、私は仕事で赤の他人のはずの式で、あやうく涙しそうになる。「やばい。今日声震えて歌えなかったらどうしよう」と心配までしてしまう。なんてオメデタイ性格の奴だ、と思うかもしれないが、前にいる男性シンガーに目を向けると、彼も目を真っ赤にして涙をこらえているようだ。それを見て、私は冷静になり平静を装って一シンガーとなる。そしてやっぱりこの式場のこの会社の一員で良かった~と自己満足するのである。

今回の偵察で得たモノは、今の自分の仕事に満足♪というおめでたいことではなく、周りの友人が楽しい!と豪語するブライダルフェアまで楽しめなくなってしまった・・・という残念な結果である。
う~ん・・・。
誰か私を中途半端な実力でも楽しめちゃうお笑いライブに連れてって(笑)ε=(*≧∇)o

サッカー

6月ももう終わろうとしている。本格的に夏到来である。私は寒いより暑い方が身体的には好きだけれど、精神的に季節としての夏はあまり好きじゃない。なんとなく陽気すぎて、快活で明るすぎて好きになれない。それよりも何かモヤがかかっていそうな、ちょっと影がありそうな、風情や物寂しさを感じちゃう季節が好きである。(率直に“秋”って言えよ!ってか!?)

それにしても6月前半は私にしては忙しく出回っていた。家にたどり着くとくたびれ果てていて、本気で自分の体力のなさを痛感し、そんな自分が嫌になった。それでその時の勢いで、後半はゆとりを持とうとヨガの仕事を断ったら、見事に時間がたっぷりできていて、それはそれで腑抜けのような生活を送っている。まとまった休みで旅行に出かけようとしたが、結局チョコチョコと仕事が入り、どこにも行けず仕舞い。うぉぉぉ!!“強気なリセット族(←21日ブログ参照)”のはずなのに<`~´>

・・・と発狂する気持ちを抑えて、テレビを見ていると、どのチャンネルを回してもサッカー。さっかー。soccer。。。
私は恥ずかしながら、非国民なので今回のワールドカップ、一切ごらんにならなかった。(←自分に敬語使うな)なので、選手の名前も2人くらいしか出てこない。しかもテレビを見ながら「あれ?カズは出てないの?」なんてトンチンカンな質問までしてしまったのだった・・・。
が!こんな私も、今回のダイジェスト版でぼけ~っとスポーツニュースを見ているだけで、ワールドカップがどんなだったか、どんな選手がいるのか、相手国にどんなツワモノがいるのか、どれだけ日本中が注目し、熱狂的なサポーターの人たちがいるのか、ほとんど把握できてしまった。

そして、試合を全く見なかったにも関わらず、ダイジェスト版で選手たちの動きを見ただけで「す、すごい・・・」と思ってしまったのだった。
鍛え抜かれた肉体、どこまでも走り続けるスタミナ、勝利を信じる心、男の悔し涙、奥に光がある鋭い視線、どこをとっても世界の舞台で在ることの偉大さを感じたのだった。
中田選手のインタビューでのつっけんどんな答え方も、彼の悔しさが痛いほど感じられた。その悔しさを堪えようと普通にしてようとしているのに、でも抑えきれないやるせなさ。久しぶりに生身の裸の魂を見た気さえした。
あんなに強い魂が宿っている、生身の人間が見れるドラマを興味ないとばかりに非国民づらしていた自分をちょっと後悔してしまった。

その後、電話で話をしていると、サッカーの話になった。一切見なかったことを伝えると、電話の向こうの相手は「自分はとりあへず何でもやる、見る、行く」と言っていた。
それに比べて私は自分のフィールド外と感じたものは、とりあへずやらない。とりあへず食べない。とりあへず行かない。もちろん今まで生きてきたデータからの行動である。とりあへずやってみたら、つまらないと感じた。とりあへず食べてみたらカロリー過多で嫌な気持ちになった。とりあへず行ってみたら、家で読書してる方がマシと思ってしまった。などなど・・・。

とりあへずやる子ととりあへずやらない子、どっちがいいんだろう?多分、どっちにしても、得られるものがあって、やらないことで見つけられないものもある。やることで手に入らなかったゆとりある時間や穏やかな心もあるかもしれない。どっちが良いとは一概に言えないから、この生き方スタンスを変える気はさらさらない。

さらさら無いけど、やっぱりワールドカップの人間ドラマをしっかり見なかったのはイタイ。あれを見たら、仕事で疲れただの、体力がないだの言っていられない。あそこからパワーをもらうことだってできたかもしれないから。

・・・こんな私に言われたくないだろうけど・・・(-_-;)
選手の皆様、お疲れ様。そしてそして、ありがとう~!!

強気なリセット族

時にふとリセットしたくなるときがある。何かを感じたわけではない。日常に飽きたわけでもない。不満があるわけでもない。ただなんとなく、ゼロからスタートしたくなるときがある。
それが仕事をやめて、新しい仕事を始めることだったり、突然と一人で遠くのどこかへ旅に出ることだったり、今の恋愛に終止符をうつことだったりする。

先日テレビで岡田君が「俺、たまに消えたくなるんっすよ」と言っていた。「あ・・・同じだ・・・」と思った。最近こそあまり考えなくなったが、劇団にいた頃、私はよく消えたくなった。存在を消してしまえたらいいのに・・・と何度も思った。
そんな思いを仕事の仲間にしてみると、意外に同感してくれる人が多かった。「うん。私もたまに思う。でも消えて少ししたら、また還ってきたい」と彼女らは言った。都合がいいことに全くその通りなのである。自由業の私たち女性は、好きなことをして生きているくせに、ふと不安になったり、不安にならないようにバリバリ生きていくほどの漲る強いパワーもない。そして、年をいくつ重ねても直感で私たちは動く。「よ~し。ここでリセットじゃ!!」と何かを捨てて、ゼロからスタートの気分になって出直すのである。

リセットするとき、誰かに別れを告げなければならなかったり、何かを終わりにしなければならない。他のことを始めるにあたって得られるものもあるだろうが、捨てなければいけないモノも多い。
でも私はもう何を失っても、何が壊れても怖くはない。これまでの人生の中でも、色んな大切だったものや、かけがえのない思いを、落としてきた気がするから。それでもまた新しい人たちとの巡りあいや古い仲間達に支えられて元気にやっているから。偏った執着心や必要以上の思い入れなどいらない・・・漠然とだがそう思っている。

でもそうやって私が強気でいられるのも、絶対に帰る場所があるからだと思う。
先日友人と話をしていて、親の話になった。彼女の両親は“世界中でたった一人の友達がお互いの存在である”というくらい、おしどり夫婦である。友人は言う。
「お母さんなんて、お父さんと一緒じゃないと電車乗ることもできないから、家の近く以外の場所、一人で行けないし。娘の私からしてみると、他の人や世界を全く知らないなんて、つまらない人生だろうなぁ~って思うけど・・・(^_^;)」
でも彼女の母はそうやって帰る場所(人?)があったから、他の人との出会いも捨て、別の世界を知ることへの欲も自然に切り捨てたのだろう。

私が強気でいるための帰る場所ってどこだろう?
やっぱり最初に思うのは、家族の無償の愛である。この年になって気づくのも遅すぎるかもしれないけれど、これまでの私の人生を振り返り、私は本当に家族に支えられて生きてきた気がする。そして父親の子供への愛、母親の思いやりって、本当に偉大ですごいものだと実感している。あんなに寛大で強くて、それでいて押し付けがましくない永久の愛がこの世に存在することに(ひつこいようだが)今さらながらに、びっくらこいている。

そして歌だ。やはりたどりつくところは歌なんだろうと思う。私が劇団を辞めた時、友達が言った。
「UFO・・・大丈夫・・・?歌・・・嫌いになってない?」
心を直球に打たれた質問だった。その子も歌が大好きな子だったからこそ、そんな心配をしてくれたのだろう。劇団をクビになっていたら、間違いなく私は歌を嫌いになっていたかもしれない。ただ私は自分から辞めるという選択をし、悪く言えばその場からとっとと逃げ出したわけで、歌に対する思いの後遺症もなかったのである。

外の世界に出てみると、歌というより音楽という大きなくくりで全身全霊をこめる人たちがいる。ものすごい才能の光を解き放っている人にも出会う。私の歌への思いなんて、ちっぽけで大したことはないと思うこともしょっちゅうである。
それでも私は帰る。私は私のレベルで帰る。歌に帰る。
こんなにも飽きっぽくて、睡眠不足だと何もやる気がしない私が、歌の仕事の日は、寝不足でも嬉しくて飛び起きる。普通の仕事なら6ヶ月も過ぎれば、辞めるタイミングを探している私が、未だに歌の仕事をしながら喜びを感じる。

私が何事にも執着せず、強気に色んなものを捨ててリセットしていく、その理由は帰る場所があるからなのだと今強く思う。
自分の未来に迷った時。「やっぱり歌おう」という一本柱。もう疲れた何も考えたくないという時。「そこに行けばゆっくり休める」という空間。
でもいつまでも元からあったモノに頼っていることはできない。私が成長する過程の中で、必ず帰ろうと思える歌が作られてきたように、私が生まれた時から自然に受けてきた無償の愛の場を、今度は自分の手で作っていかなければならないと思う。

自分の帰る場所は自分で作っていかなくちゃ。そうすることで、私はおばちゃんになっても、強気でリセットしていくのだから・・・ヽ(○´3`)ノ フッ

可愛い母

昔、私の中学の時の恩師が「人間って赤ちゃんの時、とても可愛くて、大人になるにつれて可愛いだけではなくなって、またおばあちゃんになると、可愛らしくなっていくと思うのよねぇ。また赤ちゃんに戻っていくみたいに・・・」としみじみと語っていたことをふと思い出した。たしかに、厚かましく、ふてぶてしく、気が強い、考え方も偏見に満ちた、お年寄りもいないこともないけれど、人間が生から死に至る過程で、原点に生まれ、原点に還っていく・・・という発想、少しわかった気がした、そんな一日だった。

・・・というのも、私は今日、初めて自分の母を「可愛い」と思ったのだ。

そんなわけで、今日は「父の日」だけれど、母について・・・(^^ゞ
母は月に2回、ママさんコーラスをしている。「今日は合唱の日だから・・・」と元気に出かける母を見るのは、娘としてもとても嬉しい。それまでは友達も多くなく、趣味もほとんどないような人だったから、少し心配だった。友達のお母さんを見ると、色々習い事をしていたり、主婦仲間で楽しんでいたりするお母さん達が多かったから「お母さんも何か好きなこととか、友達と遊んだりしたら!?」と、話をしたりしていたのである。
その話を聞いたからかどうかは知らないけれど、最近は友達たちとお茶するようにもなったし、花や野菜を育てるようにもなった。そしてやはり音楽が好きなようでコーラスも始めたというわけである。

先日「今度発表会があるのよ」と言って、その曲を私の前で歌いだした。ものすごく上手いわけではないけれど、そんな母をほほえましく思えて、歌唱指導もした。
そして今日が発表会当日。発表会というから、どれほどのところでやるのかと思っていたら、公園みたいなところでママさんパパさん達が集まってただ歌うだけだと言う。会場費もかからず、聞いていくお客もいるかわからない。
自己満足なグループだなぁ・・・と思いつつも「頑張ってね」と声をかけて、私は仕事に出かけた。仕事が終わると“今、1回目が終わったところ。ちゃんと段も用意されててお客さんもいっぱい来てくれたよ。思ったより緊張するものだね。2回目も頑張るよ!”とまだ慣れない携帯でひらがなと漢字が入り乱れたメールが届いていた。

か、か、かわいい~!!♪q(≧∇≦*)(*≧∇≦)p
私は初めて母を本当に可愛いと思った。公園で、しかも皆で歌うのに、緊張するのか~。母にとっては、とても刺激的な日なんだろうなぁ・・・。なんてぼんやり考えて微笑んでしまった。

私はもうどこで誰の前で歌っても緊張なんてない。今日も歌い終わって、お客さんに「久しぶりにいい歌声を聞いたよ、ありがとう!」なんて言われてしまったけれど、それさえも慣れっこになってしまい、嬉しさや感謝、良い意味での緊張感が薄れてきているかもしれないな・・・なんて思い、反省までした。それくらい色々考えさせられた母からの衝撃メールだったのだ。

いつもは母の話もそぞろに聞き流す私だけれど、今日は帰って母の嬉しそうな話を、うんうん(^.^)と言いながら聞いた。色んなことに興奮したり、気持ちが高揚する母を、うらやましいねぇ~と思ってしまったのだった。まだ母の半分ほどしか生きていない私なのに・・・(__)
「いつも冷静で客観的だね」とか「若いのに肝っ玉が据わってるよね」とか言われる私も、もう少し母を見習ってキャピキャピしようかしらん・・・とも考えてしまった。

でもさっきからいい年をして母が、ワールドカップサッカーを見ながら「お前は20代か!?」と思わせるような、悲鳴やら喚声をあげているのを聞くと、やっぱり「年を考えてくれ、うるさい。」と思ってしまう娘の複雑な心情なのであった(^_^;)

やはり、母は母だ。可愛いなんて、今後思うことはないのかもしれないな・・・(^.^)

小悪魔への道

ブログの設定をクリクリしていたら、プライベートモードなるものがあって、ちょっとやってみようと設定してそのままにしておいたら、「何かあったの??」的な心配メールを何人からか頂いてしまいました・・・。
特になんでもありません・・・。何の深い意味もございません・・・。余計な心配をかけてすいませんでしたm(__)m

よく一緒に仕事をするピアノ伴奏の女の子が可愛い。といっても、年は1つ下なだけだけど、小柄なボブカットでいつも笑っているイメージで人懐っこい。人付き合いもよく、仕事終わりに「皆でご飯食べに行こうか~」ってなると、男性陣の中に彼女一人でも必ず参加している。あんなに人懐こくて、どっか魅惑的な雰囲気のある女の子が一人いるだけで、男性陣もウハウハだろうなぁ・・・なんて客観的に見つめつつ、私は特に用もないのに断る。(って私が人付き合い悪いだけか・・・!?)

というわけで、そんな彼女に、
「なんか小悪魔っぽいよねぇ~。いいよ~。その雰囲気!(笑)」
と突然と言ってみたら、
「いやいや、(私の名前)ちゃんほどじゃないよ!」
と逆に返ってきて、お互いに『小悪魔』という名の称号を数分間押し付けあったのだった・・・。
(㊟私の事をご存知の方々・・・。かなり内輪な低レベルネタだと笑わないでください(-.-))

って、そもそも『小悪魔』ってなんだ?小悪魔って呼ばれたこともなかったし、小悪魔の気質もおそらく自分は兼ね備えてないだろうと思っていた。その割には、本屋に“小悪魔になる方法”なんて題名の本を見つけると、買わないまでも手にとってどんなことが書かれているのか、チェックしてしまっている自分もいたりするし、この度「小悪魔っぽい!」なんて言われたことに嫌な気もしなかった。なんとなく小悪魔って同姓からは嫌われそうなイメージはあるけれど、実は小悪魔って女性に対する最高の褒め言葉なのか?
どうやら世の中の女性は、この『小悪魔』ってものに憧れているらしい。男性を翻弄し、妖艶な雰囲気を漂わせる女性に。

とある本に書いてあった。“女は人から愛されることで己を確認する生き物である”と。自分がどれだけ人から愛されているか、慕われているか、相手がどれだけ自分のことを必要だと思ってくれているのか。そんな形のない、尺度も測りもなく漠然としたものに、不安になったり満たされたりするのである。

「私のこと好き?」「愛していると言ってくれ」(←あら。いつだかのドラマの題名になっちゃった)な~んて頻繁に問う女性も少なくない。「私のこと好きだったら、今すぐここに来て」とか「どれだけ私のことを好きかその証拠を見せて」というような人生で一度は言ってみたいよねぇ~というような言葉もあっさり言える女性はいるらしい。そういえば、私は男性にアクセサリーを買ってもらうような習慣(?)がなかったけれど、アクセサリー(特に婚約指輪やなんかは)その値段が、どれだけ相手が私のことを大切に思ってくれているかの証となる重要なものであるらしいのだ。(結婚する友達が言っていたのだから、間違いない。)

なるほどね~。確かに最近少しそういう女性達の気持ちがよくわかるようになってきた。いくら自分が持っているものに対して、絶大な誇りがあっても、名誉や才能があったとしても、それだけではなんの自信もわいてこない。
この人の私に対する思いは本物なのかな・・・とか、あの人の私に対する優しさは実は裏があるんではないだろうか・・・とか。そんなことばかり考えてしまう。

そして私は思うのだ。
保険が欲しい・・・。
よく一人暮らしの独身女性が、ある程度の年をとると保険について調べだすらしい。今は色んな保険があるからねぇ。私はまだ若い(?)から、欲しい保険はやっぱり人間関係。確かな愛情、確かな友情、確かな信頼が欲しい。

昨日、ある方に言われた。
「もっと甘えたり、無茶言ったり、我がままになってもいいんじゃない?」
そう人に発言させてしまうということは、私はどうやらやはり人との関係に一線をおいているようだ。そして「保険じゃ、保険じゃ~!」と色んなところに顔をつっこんでは、「どうも。毎度おなじみUFOです(^^ゞ」と色んなところを、さ迷い続けているのかもしれない。

もしや・・・これって、小悪魔!?(笑)

人間の価値

「嫌われ松子の一生」を見た。中谷美紀が主演している、人生の転落劇である。映画の中で、『“人間の価値”って人に何かをしてもらった量じゃない。自分がどれだけ誰かに何かを与えたかだよね』(はっきり覚えてないけどこんな感じ)という台詞があった。

“人間の価値”か。。。

自分の価値なんてイチイチ考えるものじゃないかもしれないし、別に考えなくたっていいんじゃないかとも思う。でも、私らメスという生き物はなぜかふとそんなことを考えてしまう夜もある。(ひょっとしてオスも?)

松子が絶対的に信じたものは、いつも男だった。家族に見放され、自分自身も信じられない彼女は、裏切られても裏切られても、男を信じてついていった。それにすがるしかないように、呆れるくらい正直に男を信じて生きていた。結局最後は信じられるものがなくなって独りになってしまうけど、ガムシャラに信じた彼女の思いはただただすごいなぁと思った。

そして今、私に何か信じているものがあるか?と胸に手をあてて考えてみるけど、はっきりと断言できるものがないことに気づく。信じたいもの、手にいれたいものはあっても、それを信用できなくなる時がくるのが怖いみたいに、いつも目の前にあるものから目を背けて生きている気さえする。
でも、私はずっと絶対的なものが欲しかったのかもしれない。仕事でも愛でも情でもお金でもいい。絶対に私を裏切らないものが。これさえ信じていれば自分は絶対大丈夫なんだっていう安心と安らぎが。

仕事でほとんど自分の時間がない日を過ごすと充実感と共に、疑問も沸き起こる。仕事は好きだ。苦痛じゃないし、歌っているときは幸せだ。仕事をしていることで自分が必要とされている価値は感じていたいけど、ものすごいプライドをもって仕事に取り組んでいるわけでもない。
同じ仕事をしていても、目がギラギラしている人がいる。誇りとプライドをもって自信に満ち溢れる表情をしている人が。私はそうじゃない。そこに私の全てを注げない自分も存在しているのだ。
では、自分にとっての大切な人になら、まっすぐに進めるのだろうか。でも他人に依存して、自分を染めるほど絶対的な人なんているのだろうか。私は対人関係でも、いつも手前でひるんでしまう。社交的で誰にでも気さくでいるようで、一枚の壁を必ずはさんでしまう。

そして独りになる。毎日の筋トレや読書は全部自分のためになるものだから続ける。自分の価値をあげるものが、自分への行いであると信じて。それでいて、誰かに何かを与えられることをも小さく望んでいる。何かをされることが自分の価値があがるのかとでも思っているかのように。
周りを見渡すと、仕事にすがりついて生きる人もいれば、恋人にぞっこんな人もいる。自分が信じれる何かを、一人ひとりがもっていて、そのものに向かってまっすぐに生きている。

でも世の中に、絶対的なもの、確かなものなんてないのだろうなと思う。これだと思って信じて生きても、その信じた道が地獄であるかもしれないし、絶対信頼できると思った人が、自分とは違う方向に突き進む人であるかもしれない。

そしてまた私は“人間の価値”ってなんだろう?とふと考える。バリバリ仕事をこなしていたら女の価値は上がる?複数の男性にモテたら、その人の価値は高いの?いやいや、たった一人でいい。心底愛し愛されれば価値はあがるの?誰もがうらやむ素敵な彼氏がいることが私の値段を上げるの?肌が綺麗だったら私の価値は上がり、荒れてきたら値段が下がるの?

映画の中の『自分がどれだけ誰かに何かを与えたか』が人間の価値基準になるとしたら、松子はとんだ転落した人生だったけど、ものすごい価値が高い人である。そして確かに彼女の人生はすさまじかったけれど、信じるものに没頭して生きた彼女はやっぱり魅力的にうつるのかもしれないなとも思う。

何かを信じたい。誰かを信じたい。自分のためではなくて、誰かに何かを与えたい。悲劇的な映画を見た後の、ちょっとセンチメンタルな今宵のUFOでした・・・。
プロフィール

UFO

Author:UFO
お茶の水女子大学文教育学部卒業後、劇団四季入団。キャッツ(シラバブ役)、マンマ・ミーア、桃次郎の冒険などに出演。
退団後も、沢木順ディナーショー、「BORN TO DANCE」山響康裕PERFORMANCE、『ザ・ミュージカル博覧会』全国公演、太平洋フェリースターダストラウンジショー、よさこいソーラン祭りの歌を担当し、沢木順主演全国公演「Musical11」ではジャンルを問わぬ歌声を披露。
シンガーとしての活動を中心に、司会、ヨガインストラクター、ライターなどとしても幅広く活動中~☆

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